@article{oai:meilib.repo.nii.ac.jp:00000725, author = {前田, 淳}, journal = {比較文化, Comparative culture, the journal of Miyazaki International College}, month = {}, note = {森鷗外の作品から人間の存在論に関わる文章を取上げて考察し、鷗外の霊肉二元論的人 間存在論を明らかにしようとするのが本論の目的である。鷗外の人間存在論の展開が分か るように、取上げる作品を発表年代によって、明治20年代、同30年代、同40年代か ら大正5年、その後鷗外の死までと、それぞれほぼ10年に区切る。明治20年代では 「舞姫」を取上げ、作中の文言「まことの我」と「我ならぬ我」に注目する。明治30年 代で注目すべき作品は「マアテルリンクの脚本」及び「うた日記」中の短歌作品である。 前者では文中の「霊の交流」という思想に注目し、後者では「あととめて 御魂や来ぬる 我魂や あこがれゆきし 夢のかよひ路」他、霊魂の活動に言及する作品を取上げる。こ の時期霊肉二元論的な人間存在論は作品の上に漸く明確になりつつある。明治40年代は 「ヰタ・セクスアリス」をはじめとして、「不思議な鏡」「金比羅」「雁」「花子」等本 論が取上げるべき作品は少なくない。鷗外の胸中にはいよいよ霊肉二元論的人間存在論が 明確な形をとり始めたと考えられる。その霊魂活動の描写が一種の幽体離脱の諸現象と相 似ることは注意すべきである。この時期の後半に多く書かれた歴史小説について鷗外は 「歴史其儘と歴史離れ」と題する文章を残している。文中「わたくしは史料を調べて見 て、其中に窺はれる「自然」を尊重する念を発した」は、一見本論が唱える霊肉二元論と は繋がらないようであるが、この「自然」という言葉によって鷗外が示そうとした世界こ そ、「まことの我」が住む世界であり、「霊魂」という真実が住む世界だったのではない か。本論は最後にあの有名な「遺言」にある「宮内省陸軍皆縁故アレドモ 生死別ルヽ瞬 間アラユル外形的取扱ヒヲ辭ス」の「外形的取扱ヒ」を取上げ、霊的な世界を真実のそれ と見た鷗外にとっては、物質の支配を受ける世界を虚妄と見ることは自然で、それ故鷗外 はあのように強い言葉をもってその「取扱い」を拒絶したのであると本論は考える。}, pages = {22--46}, title = {森鷗外の人間存在論}, volume = {22}, year = {2017} }